大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和48年(行ツ)12号 判決

上告人 曽我部憲一

被上告人 伊予西条税務署長

訴訟代理人 五味高介

主文

本件上告を棄却する。

理由

上告代理人宮崎忠義の上告理由第一点及び第二点について。

山林所得に対する課税は、山林経営により長期間にわたり蓄積され山林の所有者に帰属する山林の増加益を所得として、その山林が所有者の支配を離れて他に移転するのを機会に、これを清算して課税する趣旨のものと解すべきであり、売買、交換等によりその山林の移転が対価の受入れを伴うときは、右増加益は対価のうちに具体化されるので、これを課税の対象としてとらえたのが旧所得税法(昭和二二年法律第二七号、以下同じ。)九条一項七号の規定である。そして対価を伴わない山林の移転においても、その山林につきすでに生じている増加益は、その移転当時の右山林の時価に照らして具体的に把握できるものであるから、その移転の時期において右増加益を課税の対象とするのを相当と認め、山林の贈与、遺贈のあつた場合においても、右山林の増加益は実現されたものとみて、これを前記の山林所得と同様に取り扱うべきものとしたのが同法五条の二第一項の規定であつて、このような課税は、所有山林を時価で売却してその代金を贈与した場合との均衡からするも、また無償譲渡や低額の対価による譲渡にかこつけて山林所得に対する課税を回避しようとする傾向を防止するうえからするも、課税の公平負担を期するため妥当なものというべきである。したがつて、右規定は決して所得のないところに課税をしようとするものではなく、また、納税の資力のない場合に納税を強制しようとするものでもないから、右規定の適用さるべき場合を所論のように限定して解すべき根拠はない。

さらに、旧所得税法五条の二第一項の規定は、山林の増加益につきその帰属者に課税するものであるから、同法三条の二の趣旨になんら反するものではない。

それゆえ、旧所得税法五条の二第一項を本件に適用した原判決に所論の違法はなく、右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は、独自の見解に立つて原判決を非難するものであつて、採用することができない。

同第三点について。

所論の点に関する原審の判断は正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立つて原判決を非難するものであつて、採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 岸盛一 藤林益三 下田武三 岸上康夫 団藤重光)

上告理由

第一点原判決には判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背がある。

本件の事実は、上告人の母曽我部万亀子は親族の工藤宮太郎から、上告人方の民事訴訟(後述)の世話をしてやつた謝礼であるとして強要せられ本件山林を上告人に無断で同人に贈与し、同人もまた無断で売主名義を上告人としこれを他の製材業者に売却してその代金を手中にしたのであるが、被上告人伊予西条税務署長は課税当時は上告人が直接これを右製材業者に売却したものと誤認して山林所得税を課し後に異議が出て初めてその取引の中間に右贈与事実のあることを知つて右課税は上告人から工藤宮太郎に対する「みなし」譲渡所得税であると主張するに至つた、と云うにありこの事実は弁論の全趣旨から裕に認めることができ原審の認定も同様である。

これに対し原審は、事実は昭和三五年のことに属するから当時の所得税法第五条の二第一項(昭和三七年法律第四四号による改正前のもの、以下これを旧法と略称する)を適用して山林の時価による有償譲渡があつたものとみなし(以下これをみなし譲渡と略称する)上告人に山林所得税納付の義務がある旨の判決をした。

右に対する上告人の不服の要旨は旧法第五条の二第一項は、原審と反対の解釈が許されるもので、上告人に対しこれを適用することはできないと云うにある。以下その理由を述べる。

右旧法条項は所謂みなし譲渡を規定するものであるが本質的に租税体系上の矛盾を包蔵し異論が多い。これに関する裁判例としては最高裁判所第二小法廷昭和四一年六月二四日判決外多数の下級審判決があり大勢は無償譲渡の場合にも所得ありと見られるから贈与その他の無償譲渡全般に亘り制限なく適用すると云う方向にあるが同法条のもつ曖昧さ及矛盾の解明を尽して居ない。又学説にも、同法条には疑問の点はあるが、ことは総て立法論に属し解釈論としては右の裁判例を肯定せざるを得ないと云うものがある。本件原審の引用する第一審判決も同法条は合理的であり必要性もあると説き無償譲渡の場合にも所得ありとするのであるが、その論証として「経済的には、その資産を一旦時価で他に売却して収益を実現し次で直ちに当該時価相当額を現金で贈与する場合と同視することができ、両者区別なく課税の対象とするのが相当である」なる意見を掲げている。これは第一審独自のものでなく他にもかゝる意見を有するものがあるのかも知れないが、以つての外の議論でありわれわれは到底理解し得ない。無償譲渡に於ける所得を論証するためにこの意見を為すものなら全くの自己矛盾である。この裁判官が有司としての抽象的人格を離れて、一般国民としての立場から果してこの意見を正しいものと認め得るかどうか。この例証はどう考えてみてもこの場合無意味と云う外ない。すべて以上のものらは、或る学者が説くように、譲渡所得には経済的な実質所得の外に、税法上の概念としての「所得」をも含むものである、と意識的或は無意識に解して居るのではなかろうか。然し行政一般はもとより税務行政に於ては特に、私法上で広く見られるような表見的効果を認容することはできない。所得の何であるかに限つて考えても、日常の糧とし得ないもの、貯えることのできないもの、手に握ることのできないものを所得とは解し得ないからである。徴収する税金は現なまであるのに、その由つて来る国民の所得は現なまでなく概念であると云うのは神の前に不公平であろう。徴収する税金が概念でこと足るなら、所得も概念であつてよい筈だと思う。

そもそも税の源泉はすべて国民の所得にあり所得なきところ税はあり得ない。この場合の所得は経済的に評価し得る実質的なものでなければならない。租税制度上の実質課税の原則はこれを意味する。この点から考えると譲渡所得税なる制度には疑問がある。譲渡には所得が伴うと云うことを前提とし、これを課税物件として徴税するのが譲渡所得税制度であり、今日ではこれを肯定する見解が定着したかに見えるがよく考えてみると実はそうでないとも思える。今一定の物を譲渡し時価による代価を得たとし、次てその代価を以て同種の物をより安価に譲受けた事実があればそこに所碍が生れる道理であるが、若し同種の物を現実には譲受けず譲渡代金をその儘所持するとすれば、潜在的に同種の物を同一の時価で譲受ける経済的能力を有するに過ぎないことになる。かく考えると譲渡するだけで所得ありとは云えない。従つてわれわれは譲渡所得税は本質的には所得税ではなく、強いて云うなら歴史上悪名の高い行為税としてのみ肯定できるものでなかろうかと思う。有償譲渡に於てすらこのような疑問があるのであるが贈与などの無償譲渡の場合に至つては解明し得ない問題点がいろいろある。これに関する旧法第五条の二第一項は甚だしい悪法であり誤れる立法であるが既に改正せられた今日大した社会的変動もないのにそのまゝこれを遡及的に適用することには抵抗を感ずる。又同法条の内容は極めて曖昧で課税明確の原則に反しこの意味からも悪法のそしりを免れない。

そこで本代理人の結論を述べる。

旧法第五条の二第一項(現行法第五九条第一項第一号に該当すると云はれるが現行法は関係法条の整備によつて著しく内容が変つて来て居ると思う)の立法理由として「対価を全く得ない無償の譲渡とか、正当な対価を得ないでなす有償譲渡等によつてその資産の値上り等による価値の増加部分が実現されないような方法によつて当該資産の譲渡がなされたような場合にはついに課税することはできなくなるわけである。そこでこのような課税制度の盲点をついて、無償の譲渡あるいは低額の譲渡によつて課税を免れる傾向があるので、課税公平の見地から、それに対処するためにとくにいわゆるみなし譲渡に関する規定が設けられたものである」と税務研究所員吉良実氏は説き一般にもそう信じられて居るようであるから或は法条の原案作成に当つた大蔵官僚もその意図であつたのではなかろうか、若しそうであればこれは明かに譲渡(有償の)所得税の脱税を防止するための規定であると云える。こゝで厳に注意しなければならないことは、有償譲渡を無償譲渡なるが如く、又時価譲渡を時価によらない低額譲渡なるが如く仮装する場合に本条を適用できるかと云う問題である。仮装はあくまで仮装であるから有償譲渡の真実を捉え有償譲渡に関する規定を適用すべきであり、本条適用の余地はない。然らば仮装譲渡は見破ることが困難であるから仮装であれ、真実であれすべて無償譲渡の申告ある場合に適用すると云うのであれば新に課税の場を創造するのであつて脱税防止のための法律とは云えず所得を捕捉することに努力すべき有司の怠慢を馴致するための法律と云うことになろう。又前出吉良氏の所論のように、税制の盲点をついて課税を免れるため贈与や寄附をする者が簇出したら税収が減小して困るから国は税源を確保する必要上かゝる行為を防遏しようとして本条を設けたと云うのであれば税法を以て国民の行動の自由を束縛するものであり違憲のそしりを免れないであろうし、又課税(譲渡所得税の)を免れるためにそれ以上の損失を生む贈与や寄附をする者が簇出する筈もないからこの理論はナンセンスでもある。ただ酷税に抵抗する意図のもとに、制度の盲点をつくつもりで贈与や寄附を敢てする者は稀に出現するかも知れない。報ぜられる有吉佐和子氏の場合には一部その意図があつたかも知れないと愚考する。

次に公平課税の原則による立法であるとするものがあれば、それはおゝよそ見当違いの理論である。反対給付のある譲渡とそれのない譲渡に同等の課税をして何が公平であろうか、税を課すと云う形式に於ては公平であるかも知れないが内容は全く逆で不公平極まるものであると云える。

又本条は論者のように解するなら実質課税の原則(当時の所得税法第三条の二、現行法第一二条)にも反する。

このように論じて来ると疑問は疑問を呼び収拾不能に陥ると云つても過言でない。そこで本代理人は本条を実質課税、公平課税、課税明確の三原則に合致し且脱法行為防止の目的に添うよう定立するためには「…資産の譲渡があつたものとみなしてこの法律を適用することができる」と云う趣旨に解釈すべきであると思う。換言すれば解釈によつて適用を制限しなければ合理性は確保できないと思うのである。現在に於ても又将来も反対給付に準ずる直接、間接の利益の還元或は反射利益を何等期待できないような純然たる無償譲渡にはこれを適用せず、何等かの利益の還元が期待できる場合及無償譲渡が他の法律に違反してなされた場合などにこれを適用すべきであると考える。即ち本条は所得なきところに所得を創造するものではなく特異の形で存在する所得の捕捉方法を規定する法律と解せざるを得ないのである。

本件についてこれを見るに事案は冒頭に述べた通りであり上告人は名目の如何を問はず何等の反対利益をも得て居らず又これを期待する可能性もないから上告人に所得ありとは認め難い。従つて、前述の通りに解する外合理的に定立し得ない旧法第五条の二第一項を本件に適用することはできないと信ずる。

第二点原判決は憲法第八四条違背の疑がある。

右旧法第五条の二第一項を原審の如く解するならこれは旧法第三条の二(実質課税の原則)に反しこれを有名無実にすることゝなり、このような解釈をとることは結局課税法律主義を定める憲法第八四条の条章に違背する、ものと信ずる。

右の主張は大胆に過ぎるとの非難を、本代理人は敢て甘受するつもりであるが、争点は主として、譲渡所得税制凌に於ける「所得」をどう見るかによつて解決するものと思う。これに関する本代理人の見解の概要は理由第一点で述べた。若しこれを詳細に論じ尽すとすれば一巻の書を以てなほ足らないであろうから最高裁判所でよく考えて欲しい。

法治国家(特に成文法主義の)に於て法令を、国民をして正しく理解せしめるように定め且整備することは勿論重要である。が然し我国の税制に関する法令は複雑難解で納税者である国民の理解を期待し得ない(或は期待しない)ものであることは定評(東京大学遠藤教授)があり、そのことは、これによつて日常甚だなやまされて居る裁判官自身よく御承知の筈である。何故に然るかと事件の動き云えば事実上の立法者である官僚があまりにも概念的にものを考え、法令の形式に拘泥し過ぎるからである。こと税制に関して云うなら、エリート意識を以てきこえる大蔵官僚諸君も今すこし、取る者としての立場から概念的に立案することをやめ取られるものとしての国民のために判り易い税法を作つて欲しいし作るべきである。法制に於ける概念の遊戯はことを誤る元であり大局として国を誤ることにもなり兼ねない。所論はもとより立法及有司を論難する目的ではなく、法令解釈の背景としてこれを考えて欲しいと云うにある。

早い話として、実質課税の原則を宣明する規定(旧法第三条の二、現行法第一二条)には「収益」とあり所得と云はない点を考えていただきたい。この点とも関連して譲渡所得をどう理解するかについての本代理人の叙上の持論が独自のものでないことは東京地方裁判所の一部の判決、昭和三六年七月五日の税制調査会の答申、旧大審院の下に於ける各種裁判例にも同旨のものがあることによつて明かであると思うから御検討願いたい。

第三点〈省略〉

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